土井靖範:「内航海運の変容  ー昭和30年代の分析ー」

土井靖範:「内航海運の変容  ー昭和30年代の分析ー」,『海運経済研究』,第12号,pp.43-63,1978

目次

Ⅰ はじめに

Ⅱ 機帆船の解撤および船舶の技術革新の進展

1)機帆船の解撤

2)船舶の技術革新の進展

Ⅲ 輸送需要の変化――量的拡大と品目の変化

Ⅳ 輸送形態の変化――問屋制支配から独占資本支配へ

1)回漕業者支配の解体

2)独占資本の支配強化

Ⅴ 一杯船主の切り捨てと階層分化の進展

1)内航海運政策の推移

2)「近代化」政策による一杯船主の切り捨て

3)階層分化の進展

要約

土井は、内航海運業者の登録制から許可制への移行により、中小の運送業者の集約化(再編成)が急速に進行し、許可要件を満たさない零細な船主の多くを貸渡業へ転業させ、または廃業に至らしめた(「零細事業者の大量殺戮」と表現)という。これにより、内航海運業界内での系統化が急激に進行し、独占資本の支配的な業界となってしまったという。独占資本は、零細事業者を安く買いたたき、他の輸送機関よりかなり低コストで運ばせてきた上、国家を動かし、このような「近代化」政策を大執行させたという。内航「近代化」政策の美名の下に、強引に進められたこれらの政策は、国家独占資本主義のもとで、独占資本が自らの利益を一層拡大することを目指した、弱小企業切り捨て策であり、これによって、内航海運業界は、一層の資本集中と階層分化とが進展したとのことである。

本文抜粋

Ⅰ はじめに

奇跡といわれたほどの戦後のわが国経済発展を考えた場合、そこに内航海運の果たした役割も見逃すことは出来ない。とくに昭和30年代後半から40年代前半の日本経済の“高度成長”の牽引力となった重化学工業の再生産活動を支えたことが指摘される。即ち、内航海運の低運賃が輸送コストの点で、特に独占資本の強蓄積をもたらした要因の一つであろう。
「高度成長期」を通じて日本の産業構造や流通構造は大きく変化したが、内航海運そのものも著しく変容をとげたといえる。本稿では主要な変容として4点を指摘しているが、この変容は急激に一時におこったものではなく、昭和35,6年頃より5,6年の長い期間を経てゆるやかに進行していったものと考えられる。
こうした変容は、その変容のおこる前の状態と、それがどのような要因で変わらざるをえなかったかを析出し、かつ現在の状態がどうなっているのかを示すことにより、浮き彫りにすることができよう。
本稿のねらいは、まさにそこにあるのだが紙幅の点の制約もあり、最も大きく変容した機帆船輸送に焦点をあて、それも昭和30年代にしぼって概観していることをおことわりしたい。

Ⅱ 機帆船の解撤および船舶の技術革新の進展

1) 機帆船の解撤

わが国の沿岸輸送は、江戸時代に至り、菱垣廻船,樽廻船,北前船等に代表されるように全国的に整備され、主要な輸送手段の地位を確立した。明治時代に入っても初期の間は、江戸時代からの和船による海運がひきつづいて行われており、その後西洋型帆船や汽船も普及してくる。
汽船の登場により帆船は主として不定期船分野にウェイトを強めるのであるが、明治後期、大正期にかけてひきつづき活躍する。そうした折、明治末期に発動機(焼玉エンジン)付帆船が生み出される。初めの頃は、エンジンの不調や不慣れからトラブルも多かったようだが、それもやがて改良され、機帆船は大正初期から漸次機関を有しない帆船および石数船を駆逐しつつ発展し、昭和5~10年にかけて全国的に普及、昭和15,16年には帆船にかわる地位を確立したとみられる(図1参照)。
戦前の内航海運は瀬戸内海を中心とする沿岸地域における機帆船による輸送と、大手海運企業による大型鋼船による全国的な輸送から成立っていた。機帆船は、いわば局地的な限定[1]された輸送手段であった。しかし戦時体制下になり、汽船が多数海外との軍事輸送に従事するようになると、機帆船が従来の汽船にかわって国内沿岸輸送の役割を果たすようになるのである。ここに機帆船は重要性を認められ、声価を高めるのである。そして敗戦後も鋼船の大量損失の影響で、機帆船が大きな役割を果たしつづけるのである。


[1] 四国を中心とする瀬戸内海沿岸地区は最も機帆船利用者が顕著に見られ、汽船よりも機帆船の輸送需要が高かった。この要因として小口頼人氏は次の5点をあげている。「①四国に対する本州並びに九州側の市場が比較的至近距離の対岸に多い。② 沿岸取引地区相互間の発着貨物は比較的に小単位のものが多い。③ 汽船は概ね大宗貨物の長距離輸送に適しているが、機帆船は汽船,鉄道のように一定数量がまとまらなくとも何トンでも随時輸送に応じられて至極便利であり、汽船を利用することは輸送上不経済である。④ 四国側もそうであるが、本渡方面でも沿岸には小港がすこぶる多く存在し、汽船の場合には岸壁その他の施設を必要とするが、機帆船では港湾の発着積揚げに簡単な施設ですむ。所によってはそうした施設は必要としない。⑤ 運賃面でも汽船は長距離輸送の場合は割安になるが、機帆船は反対に割高となり、近距離ほど低廉となる。」(小口頼人「四国を中心とする機帆船輸送の概況」,『運輸と経済』1960年4月号)


図 1 機帆船純帆船隻数推移

(出所)鈴木登著『小型船海運組合法と機帆船の現状』20ページより引用

機帆船はその登場に際しては、帆船に補助機関をつけた、いわば機付帆船であったが、次第に帆が補助的なものへと主格が転倒し、今日では帆そのものも全く装備[2]していない。


[2] 機帆船の歴史的位置づけに関して、佐々木誠治氏は「帆船から汽船へ至るまでの過渡期の産物としてではなく、すでに汽船時代となったあとにあらわれた新船種であることを知らねばなりません」(『内航海運の実態』204ページ)と指摘している。ただ昭和38年まで法制上、機帆船は帆船の分野に入れられており、帆は全く使用されていなくても定期検査では帆についても検査している。「船舶安全法施行規則」の第110条の3に「帆船ノ帆類ハ所定ノ位置ニ取附ケ展開シ得ベキ準備ヲ為スコト」とある。


表 1  内航船船腹量推移

大型鋼船(500R/T以上) 小型鋼船(500G/T未満) 木船
貨物船 油送船 貨物船 油送船 貨物船 油送船
隻数 千総トン 隻数 千総トン 隻数 千総トン 隻数 千総トン 隻数 千総トン 隻数 千総トン
昭和25年 大型鋼船・小型鋼船の区別はしていない。右は100~3,000総トンの鋼船の計である。 756 1,009 106 184 19,199 734 597 28
30年 601 567 165 75 17,530 648 588 29
35年 956 833 322 148 15,644 752 822 43
38.7.1 528 780 197 197 1,088 355 862 205 25,550 1,001 775 43
40.7.1 780 891 306 265 2,260 567 1,487 307 14,776 858 618 38
45.7.1 790 1,244 508 514 4,575 971 2,076 448 7,568 451 405 29
46.7.1 756 1,211 586 603 4,494 974 2,139 464 7,463 441 378 25
47.7.1 713 1,114 554 638 4,486 996 2,100 449 7,618 424 323 22
48.7.1 727 1,175 573 666 4,743 1,015 2,118 440 6,903 407 344 24
49.7.1 846 1,371 592 729 5,567 1,126 2,218 441 6,646 383 258 18

(注)昭和25,30,35年は ①各年とも鋼船は3月末,木船は7月初現在,② 鋼船は100~3,000総トンの商船(漁船,雑船は含まない),③木船は指定統計第28号「船舶船員統計調査」によるもので5総トン以上の木船(漁船を含まない)。
昭和38.7.1の鋼船は日本船舶明細表から集計し、機帆船は、1月1日現在の数値を用いて推定した。40年以降は内航登録および届出による。49年より台船を含む。
(出所)運輸省海運局資料より作成

次に昭和30年代以降の機帆船船腹の推移をみてみたい。機帆船ないし木船(28年以降新統計方式にかわり木船一本になる)の船腹統計の不備ないし矛盾については、すでに佐々木誠治氏がその著『内航海運の実態』等で指摘のとおりである。運輸省の統計でも同じ年で機帆船の隻数が何千隻のオーダーで異なっている例さえある。こうした点で表1の統計もあくまでも一つの参考値と見ていただきたい。実態は本当につかみにくいのである。
木船の総トン数をみると25年から35年までは減少、35年から38年までは増加、38年以降減少という動きを示している。30年代の高度経済成長の中で一時的に船腹を増加させたものの、38年頃からは機帆船は解撤される一方で小型鋼船化への転換がすすめられているのである。
他方小型鋼船の建造は29年頃より大手海運会社を中心に進められてきた。内航鋼船竣工状況をみると、29~33年の5年間に100~499G/Tの鋼船は貨物船で270隻,87千G/T,油槽船で139隻,32千G/Tの増加を示している。
内航船舶は、戦後一時期に船腹の逼迫をきたした時もあったが、全般的に過剰気味であった。また船質をみた場合、戦標船や老朽船等の不経済船が大きな割合を占めていた。そのため過剰船腹を解撤し、経済船を建造する政策がとられた。
すなわち36年度以降の戦標船代替建造、39年度以降の老朽船代替建造、さらに41年度以降の近代経済船整備方式がこれであり、船舶整備公団と海運業者の共有方式によるS/B建造であった。
その結果38年以降の船種別船腹量の推移をみると、小型鋼船を中心に建造がすすみ、かわりに機帆船が解撤され、船種別構成が変化している。これは高度経済成長期に入るとともに、荷主側の輸送需要が大型化し、大型化に限界のある機帆船は不利となると共に、堪航力,速力等の面でも荷主側の要請に適合しなくなったためである。また船大工の不足により、木船の建造が困難となり、船価も鋼船の価格と余り違わないものとなった[3]等の事情により、小型鋼船に盛んに転換されるのである。荷主の積荷保証をえた鋼船化により建造資金を銀行より借入出来る途がひらけ、これが一層拍車をかけたといえよう。
この結果35年には、内航総船腹量の50%,108万総トンを占めた機帆船は52年3月末時点で総船腹量のわずか8%,34万総トンにまで減少している。
しかし隻数で見れば総内航隻数の42%にあたる6,280隻が機帆船として存在しているのである。それは、鋼船化しようとしても船価が高すぎて零細な船主には手が出せないことや後継者がいないというのが大きな要因であろう。鋼船化に乗りおくれた船主は今の機帆船がつぶれるまで乗り、あとは没落への道をたどろうとしている。手入れを十分にしてあり、エンジンをかえたのでまだまだ十分やっていけるという機帆船が案外多い事も事実であるが、現存する機帆船は船齢20年をこえたものが大多数であり、船主が愛着をもって手入れをしているとはいえ、あと5~6年でほとんど消えてゆくことであろう。
2) 船舶の技術革新の進展
産業構造の高度化や異種交通機関との競争の激化や船員不足などから、内航海運における技術革新が、昭和35,6年頃よりようやく進んでくる。これより前の30年頃から輸送合理化の最初の試みとして、特定の航路、貨物に最も適合した船舶を選び専用船としてピストン配船する方式がとられるのであるが、これはハードの面をともなった革新ではなかった。
内航海運の技術革新として、船舶面では専用船化,大型化,高速化,自動化が、他方輸送方式の技術革新としては、コンテナ化,フェリー化ないしロールオン・ロールオフ方式,プッシャー・バージ・システムが進展した。
しかしそれらの技術革新は、鋼船、それも500総トン以上の大型鋼船の分野が中心であり、機帆船が中心であり、機帆船においては若干の自動化が進展するのみである(ただ、石油や薬品輸送に従事した木船の沿岸タンク船があるが、これは専用船のはしりである)。40年代に入って(40~43年を中心に)主に船員不足の解決のため、またディーゼル機関の信頼性が上がったことに伴ない、エンジンを焼玉からディーゼル化し、かつ、それを遠隔操縦するリモコン装置をつけることが一般化する。またマグネット・コンパスによるオートパイロットをつけることも普及した。これらにより船員が2人不要になり、現在機帆船はほとんど“夫婦船”といわれるように船主夫婦の2人での運航が多くなっている。
鋼船の技術革新については、専用船化を中心に急速に進むのであるが、ここでは省略する。


[3] 小型鋼船が機帆船よりすぐれている点として柴田悦子氏は次の4点をあげている。「(1)速力が速く、計画輸送ができる。(2)積荷保険料,船体保険料が機帆船より低廉である。(3)保険による担保力があるので金融上便利である。(4)木船と建造価格が接近し、機帆船の建造自体船大工の不足で困難になってきている」(中西・広岡編『日本の交通問題』ミネルヴァ書房,昭和42年5月刊,275~277ページ)


Ⅲ 輸送需要の変化 ―量的拡大と品目の変化

昭和30年代を通じて、内航主要貨物の品目およびその輸送量が相当大幅に変わってくる。即ち、産業構造の高度化に伴って、量的側面では輸送量の増大とロットの大型化となってあらわれ、質的側面では重化学工業化およびエネルギー革命による輸送品目構成の変化となって現れている。
内航貨物量は、戦後21年には戦前最盛期(昭和15年)の約1/6に落ち込んだが、31年にはほぼ戦前最盛期の水準まで回復し、その後急増を続けて、43年には戦前の2.6倍,48年には戦前の5倍にまで達している。

表 2 船種別内航貨物輸送量の推移

(注)①はしけ輸送量は含まない。
②鋼船のうち大型は500総トン以上、小型は500総トン未満の船舶。
③37年度以前の数値は38年度以降の新統計に接続させた暫定修正値。
④38年より新統計方式にかわり、船種の分類が変更になった。
出所:運輸省大臣官房統計調査部「内航船舶輸送統計年報」

以下内航貨物の動向をみてゆきたい。38年から統計が変更され分類もちがっているので、数値は継続的にはつながらないが、まず船種別の輸送量の構成比(輸送分担率)をみると(表2)、戦後しばらくは機帆船が大きな役割を果たしていることがわかる。機帆船輸送分担率が50%を割るのは34年である。それ以降機帆船等の木船の輸送量は減少の一途をたどるのである。これに対し、機帆船から小型鋼船への転換が35年以降進んだことにより、500総トン未満の小型鋼船のシェアは急増するのである。
輸送トンキロでは500トン以上の大型鋼船のシェアが最も大きく昭和49年度には68.7%を占め、木船は著しく減少し、1.5%にしかすぎない。

次に統計は省くが、戦前、30年,40年,50年と4つの時期を中心にみた場合、主要品目別には次のような変化が生じている。

(1)戦前の昭和8,9年頃の大宗貨物は、石炭,木材,金属類,肥料,鉱油,セメントであった。その中でも石炭がケタはずれに量が多い。

(2)昭和30年には石炭,石油,砂利・砂・石材,鉄鋼,非鉄である。石炭はやはりケタはずれに多く、ずっと首位をつづけている。

(3)昭和40年にはエネルギー革命や重化学工業化の進展からその品目にちがいが出てきている。39年に石炭にかわって石油および同製品が首位におどり出ている。3位以下鉄鋼,砂利・砂・石材,セメントの順である。各品目の量的な増大も著しい。

(4)昭和50年の大宗輸送品は石油,鉄鋼,石灰石,セメント,石炭の順になり、石炭は5位に、あらたに石灰石が登場している。48年の石油ショック以降各品目の輸送量は減少傾向を示しているのが特徴である。

Ⅳ 輸送形態の変化 ―問屋制支配から独占資本支配へ

輸送形態も大きく変容をとげるが、それを非常に大胆に表現すると、次のようなパターンと考えられる。

昭和30年代前半まで:荷主 ― 回漕業者 ― 一杯船主(運送業者)
昭和30年代後半以降:荷主 ― 元請運送業者 ― 下請け運送業者 ― 一杯船主(貸渡業者)

変容としては回漕業者支配の解体が特徴的である。
1) 回漕業者支配の解体
機帆船による輸送を目的として荷主、船主または運送業者間に介在して、貨物の集荷,積み込,運賃の収受その他の関連事務をつかさどる業者が戦前より存在していた。これらは木船回漕業者ないし回漕店といわれ、この業界特有の姿を呈していた。
回漕業者のルーツをたどれば、いわゆる「津屋」または「回漕問屋」にさかのぼれよう。なぜ機帆船にこのような独特な回漕業者が介在したのであろうか(汽船にももちろん回漕業者はあったが性格はちがっていた)。
それは機帆船はきわめて弱小な一杯船主(船長も兼ねる)がその主体をなしており、陸上部になんらの組織も持たなかったからである。たえず海上に出ている船主にとっては、石炭をはじめ、金属,セメント,肥料等の大産業荷主と直接結びついてその輸送を引受けることは、ほとんど不可能なことであった。他方荷主の方も輸送事情に暗かったことや信用力のうすい零細な船主と直接取引きすることの不安から、回漕業者に運送の仲介を依頼したのである。
しかし一律に回漕業者といっても大は事故の所有船舶をもった上にさらに一杯船主を常時支配していたオペレーターのような存在のものから小は自転車で港を走り廻って、機帆船と貨物を探すにすぎない者まで、その規模や程度は種々雑多であったといわれる。
回漕店ではその仲介手数料として、通常運賃の7~10%をとっていた。また回漕店は船主に対して金融も行なっていた。最近30名程の船主または旧船主にヒヤリング調査をする機会を得たが、それによると船の建造費用への融資のケースは皆無であり、油代や船の修繕費・検査費用を前借りすることは当時応々あったとのことである。
この点に関し四国地方総合開発調査所のまとめに『瀬戸内海を中心とした機帆船輸送の経営構造とその問題点』(30年3月刊)は次のように述べている(75ページより引用,原文のまま)。
「船以外には大した資本を持たない多くの船主は、その航海当り、船員の給料,あるいは燃料の油代等を前借りし、また場合によると、船の修繕費をも前借りすることがあるが、この場合には利子をもとられ、また、運賃が荷主から手形で支払われた場合は、その手形の割引料をもとられる場合があり、それらを合計すると、たとえ運賃に対する手数料を7%としても、その総差引き高は10~12%にもなるのではないかと言われているが、機帆船回漕店の性格が、このように極めて前期的高利貸的資本であり、封建的な中間搾取機関であると非難されているのはこの点にあたると思われる」
これら回漕業者の内、オペレーター的な比較的大手の業者はともかく、零細なブローカー的な業者の中には競争の激化に伴ない、荷主から低賃金で集荷し、そのシワを船主に寄せる悪質業者[4]も多かったといわれる。


[4] 「回漕部の仕事は運賃競争が激しく、荷主の争奪にどうしても、無理が生じるのです。そしてその尻が船主に持込まれるのでした。荷主から運賃を叩かれるので時には損することもある。
又、意地の悪い荷主でありますと、初めからトン数をゴマかしたりするのです。所謂“トンコロ”という奴、例えば100トンある荷物を80トンという。回漕店は今度60トンというてS/Oを貫う。」,『大光商船小史』(昭和45年7月刊)は大正11年頃の荷主,回漕店の行状についてこのように述べているが、その行状は後になってもあまり変らなかったようである。


船主はこうした運賃ダンピングによるしわよせだけでなく、回漕店から多くの中間収奪をうけていた。「回漕業者が荷主の代理者としての外に彼自身のために船主を搾取する傾向があるからである。例えば、荷主から5万円で請負った荷物を4万円で船に渡し、更に手数料として船主から4万円の一割を得るが如きがそれであり、しかも更にその3万6千円の運賃も「内金」又は「油代」と称して一万円渡し残金は引延ばせるだけ引延ばして彼自身の運転資金とすることも悪質業者のよくつかう手段である。船主はこの搾取から逃れようとする自覚があるが自身で集荷の困難な船主達は甘言で誘われれば勢いこれに頼る道理であり結局泣き寝入りする結果となっていた」と鈴木登氏は『小型船海運組合法と機帆船の現状』で述べている(43ページ)。

ところで、こうした回漕業者は一体いくら位存在していたのであろうか。昭和27年11月から34年までの統計をみると(表3)、その数は700~900者である。担保力のない悪質回漕業者の乱立を防ぐねらいで営業保証金(10万円~20万円)の供託制度を採用した木船運送法の施行(これにより登録制となり、以後業者数を把握しうるようになった)直後の27年11月から34年まで約240の業者が増加している。回漕業者は機帆船がふえるに従って増加の傾向を示している。

しかるに次にみるように35,36年頃より荷主である独占企業が物流合理化の一環として、系統化をすすめてくると、回漕業者の上層のごく一部をのぞいて自然淘汰されるのである。回漕業者の淘汰は上記の原因以外に機帆船が少なくなり、回漕業者の分野が狭められたこと。増加した小型鋼船は直接荷主企業とむすびつくことになり、回漕業者が排除された。さらにはトラック輸送やフェリー輸送が普及し、零細な回漕業者の主に扱っていた雑貨がその分野へ流れたことがあげられる。

表 3  木船運送業者登録推移

年月日 運航業 貸渡業 回漕業
昭和27.11.15
28.10.末
29.3.末
30.3.末
31.3.末
32.3.末
34.3.末
13,621
15,793
16,559
17,706
18,921
19,927
22,371
608
691
703
736
770
763
865
681
764
774
787
809
839
917

(出所)鈴木登著『小型船海運組合法と機帆船の現状』107ページ等より作成

2) 独占資本の支配強化
近年における大量生産・大量消費により、流通面の支配を強めるため、とくに物的流通業の系列化を中心に、物流合理化が展開されている。これは35,6年頃より一般に進められるのであるが、内航海運業界においては、20年末頃から30年初めに系統化が徐々に進展してくる。これは機帆船が荷主の積荷保証をえて小型鋼船化される時期と一致する。独占資本の直接輸送支配への乗り出しは、次のa,b 2段階ですすめられる。
a) 輸送専属化ないし元請輸送方式
独占資本が輸送を依頼する海運会社を数社ないし1社に限定[5]し、専属とし、それ以外の業者には輸送させないというのがこれである。
これにより、荷主-元請運送業者-下請運送業者-一杯船主という多層の輸送構造が確立するのである。
これは内航海運企業が特定の大荷主(窓口は輸送部等)との間に長期契約に基づく長期配船、あるいは長期積荷保証を基盤として運航するもので、荷主への従属関係が強い。この専属化は、専用船化が進むにつれて ― 専用船の場合は一般貨物と異なり、取扱い貨物が限定され、他への起用がきかないことから― ますます強化されつつある。
b) 独占資本による子会社海運企業の設立
これは独占資本がみずからの資本参加で海運会社を設立、あるいは他海運会社を呼収し、もっぱら自社貨物の輸送にあたらせる形態である。一般に荷主系企業といわれており、表4にかかげるものが代表的なものである。bの子会社が設立された場合にはaの専属化も変質し、子会社ただ一社が元請会社となり、従来専属であった会社は下請会社へと転落することとなる。


[5]28,29年頃より、専属化がすすんできている。たとえば「大手筋炭鉱の三井産業は早くから、汽船輸送は三井船舶,機帆船並びに艀輸送は三洞運輸に一元化され、又、明治鉱業は昭和28年明正商会にその大部分を集中し、また、貝島炭鉱は、阪神地方向けは『めかり』海運,協和海運外一,二の回漕店に、中,四国地方のみへは自社系の『えびす』海運に扱はしていたが、29年中頃からは全部『えびす』海運に一元化されていると言う状態であり、また、中小炭鉱と回漕店との専属契約の場合は割合に少く、優秀な商社(問屋)→優秀な回漕店という方向の系列化が進んでおり、弱小資本の回漕店は、自然淘汰の運命にある。」(四国地方総合開発調査所編『瀬戸内海を中心とした機帆船輸送の経営構造とその問題点』79~80ページ)


表 4 荷主系海運会社

海運会社名 親会社 設立年月
石炭 北星海運
三井室町海運
室町近海
松島海運
泉汽船
北海道炭鉱汽船
三井鉱山
三井鉱山
松下炭鉱
住友炭鉱
昭和25.5
26.10
24.7
25.5
25.5
鉄鋼 神鋼海運
芙蓉海運
三星海運
製鉄運輸
広畑海運
月星海運
川鉄運輸
住金海運
神戸製鋼
日本鋼管
中山製鋼
新日本製鉄
新日本製鉄
日新製鋼
川崎製鉄
住友金属工業
29.10
24.6
21.11
42.4
17.12
24.9
18.2
32.8
石油 日本マリン
東京タンカー
平和汽船
ゼネラル海運
モービル船舶
日本タンカー
宗像海運
朝日海運
第一タンカー
英幸海運
関西運油
千歳海運
日本鉱業
日本石油精製
昭和石油
ゼネラル石油
モービル石油
共同石油
出光興産
大協石油
三井物産
伊藤忠
日本石油
丸善石油
大正12.12
昭和26.7
23.10
34.8
6.8
42.3
37.5
21.12
36.5
35.6
17.10
36.8
セメント・肥料 岐陽海運
東洋港運
東海運
大窯汽船
田淵海運
徳山曹
東洋曹
小野田セメント
大阪セメント
住友化学工業
38.2
26.7
大正6.12
昭和24.10
10.10
自動車 トヨフジ海運
マツダ運輸広島
日産プリンス海運
トヨタ自動車
東洋工業
日産自動車
29.3
4.11
38.1
その他 国華産業
太平洋船舶
関電阪急商事
京北海運
中央航運
暁海運
三和船舶
トピー海運
流通海運
エーコープライン
大光海運
帝人
太平洋興発
関西電力
日商岩井
中央産業
石原産業
日本冷蔵
トピー工業
丸紅
全農
日本触媒化学工業
22.3
24.8
15.5
29.6
37.9
昭和21.1
30.2
9.8
25.1
43.8
28.8

独占資本は、運輸部門(広くは流通部門全体だが)を直接的あるいは間接的に支配下に組み入れることによって、流通過程の合理化をはかり、コストを切り下げ、全体としての生産性を高め、さらに一層大きな独占利潤の獲得をめざすものである。

零細企業の乱立,複雑な輸送引受システムの存在等もあって、内航海運企業の荷主企業に対する立場は極めて弱く、とくに不況期には、荷主のオペレーターに対する運賃引下げ要求→オペレーターのオーナーに対する用船料の引下げ要求→一杯船主を主体とするオーナーの用船料値下げ、というパターンで、極端な低運賃が強いられるのである。

そうした輸送部門への進出・支配化は単に産業独占資本だけではなく、商業独占資本によっても行なわれている。筆者はインダストリアル・キャリア化とは、狭く産業資本による自己運送に限ることなく、広く独占資本(商業独占を含む)による海運支配と考えるものである。

こうした荷主 ― 荷主系列の元請運送業者 ― 下請運送業者 ― 一杯船主という独占資本にとって好都合の輸送構造が確立した裏には次のⅤで述べるような国の内航海運「近代化」政策が大いにあずかっている。

Ⅴ 一杯船主の切り捨てと階層分化の進展

1) 内航海運政策の推移

まず戦後より今日までの内航海運業に対する国の政策をあとづけたい。

第2次世界大戦は、内航海運にも壊滅的な打撃を与え、敗戦時には、貨物船船腹は重量トンで戦前の最盛期の1/4,輸送量では1/10に落ちこんでいる。しかし昭和21年には国家管理されていた機帆船が、鋼船より早く国家使用を解除されたことから、戦後の内航海運の主役は機帆船になり、業界は脆弱な体質のもとに再出発した。

残った鋼船の方はアメリカ占領軍の管理下におかれていたが、昭和25年4月より800総トン未満の小型船を手始めに「民営還元」が行なわれ、一方、船舶公団による計画造船(第1~4次までは内航船で、以降は外航船)が始まり、船腹は着々と整備されていった。

ところが日本商船の外航就航が制限されたこと等により、内航における船腹過剰が著しくなり、昭和25年には係船補助金が出され、また800総トン以上の鋼船のうち戦時標準船や船齢30年以上のものをスクラップにする「低性能船舶買入法」まで制定されている。

25年6月に勃発した朝鮮動乱は内航にも一時活況をもたらしたが、休戦後にはまた船腹過剰におちいっている。昭和27年には、零細企業である木船業者の安定をめざして「木船運送法」が作られ、他方「臨時船舶建造調整法」が公布されて500総トン以上の鋼船建造が許可制となった。

30年代に入ると、スエズブーム,神武景気にあやかり、内航も船腹不足が生じるまでになった。この時期における鋼船建造はめざましく、岩戸景気をへて5,6年間に船腹は約5倍に増加した。だが30年代を通して全般的には業界は慢性的な不況が続いたと見ることができ、その間、32年には「小型船海運組合法」にりて業者は船腹の自主調整を行うこととなり、37年には「小型船海運業法」によって限定登録制となっている。

39年には、いわゆる内航2法(「内航海運業法」と「内航海運組合法」)が制定され、これまでの制度が抜本的に整理され、過当競争防止や参入規制が強化された。従来までは、500総トン未満が対象であったのが全内航船が対象となり、内航海運業の登録制,適正船腹量の策定,自家用船の規制,および内航海運業者の組合結成と不況時の調整などが行われることになった。

しかし、この内航2法においても、政府の“ねらい”が成就しなかったため、昭和41年5月には「内航海運対策要綱」が閣議決定されている。この要綱に基づき、内航海運業の「近代化」・「適正規模化」をはかるという名目をもって41年12月内航海運業法の一部が改正され、内航海運業は従来までの登録制から許可制に改めされた。その許可基準として、一定の支配船腹量の保有が義務づけられるなどの措置がとられた。この営業許可制は、新規参入者に対しては昭和42年4月1日より実施され、従来より登録して事業を営んできた業者については44年10月から実施された。中心をなす許可制の基準となる保有船腹量については省令により表5のように定められた。

表 5  内航運送業の許可基準船腹量

区分 事業の区分 基準船腹量
1号業者
(許可符号A)
総トン数500トン以上の鋼船を使用して営む事業(4の業者を除く) 5,000総トン
2号業者
(許可符号B)
総トン数300トン以上500トン未満の鋼船を使用して営む事業(1および4の業者を除く) 2,000総トン
3号業者
(許可符号C)
総トン数300トン未満の鋼船を使用して営む事業(1,2および4の業者を除く) 1,000総トン
4号業者
(許可符号D)
平水区域を航行区域とする船舶,あるいは木船,あるいははしけのみを使用して営む事業 200総トン

2) 「近代化」政策による一杯船主の切り捨て

この「近代化」政策に対応するため、中小運送業者を中心に集合化=再編成が急速に進行し、他方200総トン未満の機帆船ないし小型鋼船を一隻しか持たない零細な船主の大多数は貸渡業へと転業をよぎなくされた。また船を売却し廃業した船主も数多くあった。

その推移は表6が歴然と示している。運送事業者数は34年4月の22,371者,42年3月末の9,149者から48年3月には893者へと大幅に減少している。許可制実施以前の41年4月には内航運送業者(オペレーター),船舶貸渡業者(オーナー)およびそれらの兼業者をあわせて1万1,000者あり、しかもそのうち船舶所有数が1隻の業者 ―いわゆる一杯船主― が全体の83.8%と圧倒的多数をしめ、また支配船腹量が100総トン以下の事業者が56%を占めていた。運送業の資格をきびしくしたこの許可制実施に伴い、それらの船主の大部分は転業し貸渡業専業になったり、一部は企業合併や協同組合・協業組合を設立し、何とか運送業の営業をつづけている現状である。

このように業界の「近代化」をはかるという美名の下で、零細業者の大量殺りくがなされた真の意図[6]はどこにあったのであろうか。独占資本は、零細業者を安く買いたたき、他の輸送機関よりはずっと安く運ばせてきたのではなかったか。言うなれば独占資本の今日の繁栄をきずいた一因ではなかったのか。


[6] 政府の公式見解は次のとおりである。「運送業者は許可基準に適合した適正な企業規模に再編成されることとなり、一方、貸渡業者は適正規模化した運送業者との間に安定した長期の用船関係を結ぶこととなり、より健全な経営が確保されるものと考えられる」(『海運白書』44年7月刊,125ページ)


表 6  内航海運業者(許可業者)数の推移

年月日 運送業 貸渡業 取扱業 備考
昭42.3.31 9,149
(100)
1,792
(100)
1,605
(100)
12,546
〔11,607〕
42.4.1許可制施行
43.3.31 8,595
(94)
1,938
(103)
1,616
(101)
12,149
〔11,206〕
44.10.1許可制完全施行
44.3.31 7,548
(83)
3,112
(174)
1,536
(96)
12,196
〔11,367〕
45.3.31 1,175
(13)
9,129
(509)
1.376
(86)
11,680
〔10,720〕
46.6.1許可の対象を縮小
46.3.31 1,188
(13)
9,404
(525)
1,430
(89)
12,022
〔11,009〕
47.3.31 897
(10)
6,057
(338)
1,446
(90)
8,400
〔7,483〕
48.3.31 893
(10)
6,258
(349)
1,492
(93)
8,644
〔7,038〕
49.3.31 899
(10)
6,577
(367)
1,441
(90)
8,917
〔8,000〕
50.3.31 901
(10)
6,289
(351)
1,489
(93)
8,679
〔7,734〕
51.3.31 879
(10)
6,048
(338)
1,479
(92)
8,406
〔7,491〕
52.3.31 845
(9)
5,984
(334)
1,481
(92)
8,310
〔7,428〕

(注)1.〔  〕内は2業種以上の兼業者の重複を除いた実海運業者である。
2.(  )内は昭和42年3月31日現在を100とする指数である。
3.昭和46年6月には、内航海運業にしかれている許可制の対象の下限が「100総トン以上又は長さ30メートル以上の船舶による事業」に引き上げられた。
(出所)運輸省資料による

それにもかかわらず、こうしたことが断行されたのは、独占資本の求めるものが、単なる低コスト以外に、運送の質の向上(確実性,安全性等)がより強く要求されだしたことが主因であろう。独占資本の要求する輸送の合理化に耐えるもののみ、生かさず、殺さず育てていき、利用し、他のものはすべて切り捨てようとしたのである。

このような独占資本の要求にかなう「合理的」な輸送力を提供していけるように、業界を再編成する国家政策が強力に推進されたのである。独占資本は自分の大規模化した輸送体制にみあった規模にまで、内航海運における生産と資本の集中をおしすすめ、独占体に奉仕させるため、従属させている国家を動かし、このような「近代化」政策を代執行させたといえよう。

3) 階層分化の進展

内航「近代化」政策の美名の下に、強引にすすめられたものは、国家独占資本主義のもとで、独占資本がおのが利益を一層拡大することをめざした、弱小企業切り捨て策であった。これによりこの業界においては次にみるように、一層の資本集中と階層分化とが進展するのである。

表 7  資本金別にみた業者数及び支配船腹

昭48.3.31 昭50.3.31
資本金階層 業者数 構成比 支配船腹 業者数 構成比 支配船腹
千総トン 構成比 千総トン 構成比
なし(個人) 91 10.2

%

81.3

38 0.8

%

33.6

81 9.0

%

79.6

41 0.8

%

29.9

1千万円未満 394 44.1 637 13.7 364 40.4 519 10.1

1千万円~

5千万円

241 27.0 889 19.1 272 30.2 982 19.0

5千万円~

1億円

54 6.1 14.5 899 19.2 38.4 54 6.0 16.4 755 14.6 39.4
1億円~5億円 75 8.4 892 19.2 94 10.4 1,282 24.8
5億円~10億円 20 2.2 4.2 293 6.3 28.0 11 1.2 4.0 237 4.6 30.7
10億円以上 18 2.0 1,010 21.7 25 2.8 1,345 26.1
893 100.0 4,658 100.0 901 100.0 5,161 100.0

(出所)運輸省資料による

昭和48年3月末現在資本金5,000万未満の運送業者は、全体の81.3%をしめるが、その支配船腹は全体の33.6%しか占めず、零細性をあらわしてる(表7参照)。10億円以上の業者は2%の18社しかないが21.7%も船腹支配をしている。こうした大手のほとんどは、大手荷主ないしは、外航大手の系列会社である。
支配船腹量別の業者数をみると(表8参照),200総トン未満の業者が41年3月末には85%にも達していたのに、48年3月末では8%と、著しく減少している。また1号業者(5,000総トン以上の大手業者)は、逆に1%から21%に達している。1号業者は業者数としては2割にすぎないが、これらの業者が支配している船腹量は隻数で36%,総トン数で75%に達している。許可制実施による集約化の効果=資本の集中と階層分化が明らかに認められよう。

表 8  支配船腹量別にみた事業者数及び構成比

支配船腹別階層 昭41.3.31現在 昭48.3.31現在 昭52.3.31現在
業者数 構成比 業者数 構成比 業者数 構成比

200トン未満

四号  200~1,000 〃

三号  1,000~2,000 〃

二号  2,000~5,000 〃

一号  5,000~10,000 〃
業者  10,000総トン以上

8,228

1,169

115

82

53
55

9,702

84.8%

12.1

1.2

0.8

0.5
0.6

100

71

298

148

191

107
78

893

8.0%

33.3

16.6

21.4

12.0
8.7

100

83

244

165

162

96
95

845

10%

29

20

19

11
11

100

(出所)運輸省資料による

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